36年のビジネス人生には、半端ない経験がつまっています

バレーボールに明け暮れた高校時代
私は1963年に福岡県北九州市で生まれました。福岡県立八幡高校に進学し、入学式の日にバレーボール部に入部。3年間、全国大会を目指して練習に励む日々を送りました。キャプテンでレフトスパイカー、身長175センチとバレーボールの選手としては小柄ですが、ランニングジャンプは1メートル超えで、バスケットボールのリングを両手でつかめるほどの高さと、空中で静止くらいの滞空力がありました。県大会ではベスト8、全国大会に進む強豪校の壁を破ることができませんでした。お世話になった向井監督の「今に徹せよ」という言葉をいつも思い出します。目の前の瞬間に集中することで、とてつもないパワーを発揮できることを体感した3年間でした。

成績低迷から救ってくれた野球部監督
そんな中、ハードな部活生活で成績は低迷。入学時は2番だった成績が、学年最下位レベルまで転落しました。そんな私を、クラスの担任で野球部監督を務めていた川村先生が、1ヶ月間、週2回、朝5時に家を訪ねてきて、数学を教えてくれるなど、励ましを与えてくれました。大学受験は現役時は全敗しましたが、1年浪人して、同志社大学経済学部に入学することができました。

大学では日米経済摩擦を研究
大学時代は3人の恩師にお世話になりました。一人目は、マイケル・シェラード教授で、英語と国際文化を教わりました。二人目は、国際政治学の辻野教授で、世界に目を広げることを教わりました。そして三人目が、経済政策のゼミの野間教授で、天下国家論を教わりました。三人の恩師からの学びを活かし、当時、激化していた日米経済摩擦を研究し、英語で政策提言を作って、3年時に、ワシントンDCに単身乗り込んでいきました。対日強硬派議員として有名だったダンフォース議員など、米国議会や政府の要人20名に手渡してくるといった経験をしました。高校時代は1ミリも勉強しなかった私ですが、大学に入って学ぶことの楽しさを経験しました。三人の恩師や、訪米時にお世話になった方々には、今、改めて感謝の気持ちで一杯です。

日本興業銀行に入行
1987年に大学卒業後は、日本興業銀行に入行しました。当時はバブル直前の時期でした。1985年ののプラザ合意で、1ドル250円だった為替レートが、1年間で1ドル150円になるなど、劇的な変化が起きました。当時の日本は輸出主導型の経済でしたので、1年間で40%の円高は、鉄鋼、自動車、電機などの輸出企業に壊滅的な打撃を与えることとなりました。その一方で、国内に大幅な資金が流入し、国内の金融市場は活況を呈することとなりました。そんな時代に、当時、産業金融の主力銀行と呼ばれた日本興業銀行に入ることを決めたのでした。以下の表は1989年と2023年の世界時価総額ランキングです。かつて世界のトップ10に、日本企業が7社が入っていた時代があったのです。

銀行では、国際的な仕事をしたいと思っていました。ただ、当時の私の英語力は、旅行レベルでは話ができても、仕事レベルでは十分ではなかったため、仕事の合間に英語力を磨くべく勉強に励みました。同期入行の100人は、皆、個性と能力あふれる素晴らしい仲間で、今でも交流を続けています。

入行2年半での左遷人事
半年間の本店研修を経て、配属は神戸支店になりました。支店での仕事と生活に、私は馴染むことができませんでした。週に何度も飲みに行き、1次会、2次会、3次会で、夜中の2時頃まで飲み歩き、先輩の行きつけのバーでネクタイを鉢巻にして歌を歌い、カウンターの中に入ってコップを洗いながら、ママと先輩に媚びを売る。そんな暇があったら、とっとと部屋に戻って英語の勉強をしたいといつも思っていました。そんな冷めた私は、支店の人たちにとってはあまりカワイイ後輩とは思われなかったことと思います。

2年半が過ぎた頃、私は支店長室に呼ばれました。大きなソファの隅に座った私に、支店長はスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出し、応接台の上をスッと滑らせながら、私の方に投げ渡しました。転勤辞令でした。そこには、「電子計算室に異動を命ず」と書かれていました。私は自分の目を疑いました。あこがれていた国際業務と大型コンピューターの運用管理業務とでは、天と地の開きがあるからです。その時は、「入社3年も経たずに左遷か…」と失意にどん底に落ちました。今になって振り返ると「ここなら仕事も忙しくないから英語の勉強に時間を割ける」という支店長の計らいだったのかもしれません。しかし、当時は、ハラワタが煮えくり返るほどの怒りと悔しさを覚えました。

ソニーへの転職
失意の辞令を受けた週の土曜日に、日本経済新聞に大きな人材募集広告が載っていました。ソニーが役員の財界活動サポートスタッフを公募するというのです。私はソニーに勤務する大学の先輩に連絡をとって話を聞いたところ、なんと、共同創業者の盛田昭夫会長をサポートする仕事だと言うのです。盛田会長と言えば、Mr. Sonyとして世界中で有名な経営者で、世界のリーダーが日本に来るときは、誰よりもまず盛田会長を訪ねてくるという、当に日本のスポークスパーソンと言える存在でした。アップル創業者のスティーブ・ジョブズも盛田会長は憧れの対象だったと話すくらいです。

盛田昭夫会長の財界活動サポート

私はその日のうちに履歴書を送りました。そして、1990年5月、ソニーに入社することとなりました。当時、日本興業銀行を自分の意志で辞めて、事業会社に転職したのは、多分私が初めてだったのではないかと思います。入社初日に、私は会長室に連れて行かれ、盛田会長に紹介されました。シルバーグレーの髪と琥珀色の瞳、そしてそのオーラに圧倒されました。「キミが佐々木君か。よろしく頼むよ」と言葉をかけてもらいました。

私は国際企画部という盛田会長専属のスタッフ部署に配属になりました。部長の米澤さん(後の人事総務担当上席常務)の指導を受けながら、最初はブリーフィングメモづくりから、そして、少しずつ責任の重い仕事を任されて、経団連を始めとする社外への同行や、その際のスピーチ原稿の草案づくりを託してもらえるようになりました。

経団連では、当時、十数名いた正副会長会議の場にも陪席し、日本を代表する企業トップの議論を目の当たりにする機会も数多くありました。重厚長大企業の存在感が大きい中で、堂々と正論を語る姿をみて、「これが世界のモリタと言われる所以か…」と心を打たれる機会が度々ありました。移動の際に、車の中でブリーフィングをすることがしばしばありました。そのよう中である日、「盛田会長はあのような中で、ストレートに物を言う姿勢にいつも感銘を受けています」と伝えたことがあります。それに対して会長は、「いつも勇気、勇気と、自分に言い聞かせているのです」と言ってくれたことを思い出します。

盛田会長、倒れる

ソニーに入社後3年半、盛田会長の様々な社外活動をサポートしました。日米財界人会議、経団連の行政改革委員会、日米構造協議委員会など、様々な場で議長を務めていたので、その活動は広範に及びました。国内に対しては、当時、国際社会から非難をあびていた日本市場の規制や企業慣行の閉鎖性を、もっとオープンなものにしようと働きかけながら、その一方で、米国や欧州には、為替投機にうつつを抜かし、産業競争力の低下を招いた政策こそが問題であることを堂々と主張する盛田会長を支える仕事は、本当にやりがいあるものでした。

ところが、1993年の秋、経団連会長の内示を受ける日の朝、早朝テニスをしている時に、うまくトスが上がらないという会話の最中で、脳梗塞で倒れて病院に搬送され、緊急手術が行われることとなったのでした。その日は、あまりの事態に、私たち若手スタッフにはそのことが伝えられませんでした。私は翌日に、盛田会長から「為替投機の実態を調べてくれ」という指示で訪れていた、大手銀行の為替ディーリングルームのモニターに映し出された「ソニー盛田会長、倒れる」という速報ニュースで、そのことを知ったのでした。私は、全身の力が抜けて、茫然自失となりました。2日前に、「これからの日本をどうするか」についてミーティングを行ったばかりで、こんなことがありうるのかと、悲しみの底に沈むこととなりました。

留学制度に挑戦
その後、しばらくの間、国際企画部のメンバーは会長の回復を待つ日々が続きました。それまでに行っていた国際情勢のブリーフィングメモの宛先は、大賀社長に変わりました。そして、さらに時が過ぎゆく中で、一人ひとりと、メンバーが他部署に異動になっていきました。私は、盛田会長をサポートするためにソニーに転職してきた身であることから、それからのキャリアをどうすればよいか、悩みました。そのような中で、社内に留学制度があることを知り、試験にチャレンジしました。そして、運良く合格することとなりました。

ハーバード・ケネディスクールに合格
私は「盛田会長の意志を継ぐ」ことを誓い、これからの激動する世界の中で、日本とソニーのあり方を考えることができる学校を選びたいと思いました。そして、ハーバード大学にある、世界を動かすリーダーの養成機関ともいえるケネディ行政大学院を目指すことにしました。世界最難関の一つとも言える学校であり、あの高校時代のひどい成績だった自分が受かるとは想像できませんでしたが、天の導きか、なんと合格通知が届いたのでした。

今、振り返ると、実は大学3年時にアメリカに政策提言の旅をした時に、ボストンに立ち寄り、ハーバード・ケネディスクールを訪問していたのでした。キャンパスで大学スタッフの方と話をした時に、私が日本人であることを知って、「昨日、ソニーのアキオ・モリタがここで講演したのよ!」という話を聞かせてくれました。その時、日本人として「なんと誇らしいんだろう」と思いましたし、この学校でいつか学んでみたいと強く思った自分もいました。心にありありと想い描いたことは、いつか実現するという話がありますが、盛田会長の仕事、そしてケネディスクールへの留学と、まさに12年前に描いたビジョンが実現してしまったのには驚きました。(つづく)

これから成し遂げたいこと